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近藤勇の京都を・・

3月20日に新システムの打合わせで大阪の顧客訪問をしました。
翌日21日が休日なので途中京都に一泊をして
 
 ・京都壬生寺から四条通りを経由して三条木屋町の
  池田屋まで歩いて見ました。1時間半でした・・
 
今から159年前に新選組近藤勇隊10名(沖田総司など)と土方歳三隊20名
が屯所の壬生寺から四条通りを経由して三条木屋町の池田屋に行きました。
世に云う「池田屋事件」ですね・・
 
 ・当然、その頃とは町の風景は変わったと思うが同じ道中
  を歩いて「新選組とは何だったのか」を考えて見ました。
 
事件の元治元年6月5日は祇園祭の宵山で、人出が多く賑わっていたので
長州などの尊王攘夷派が密会をするには都合が良かったのかも知れません。
三条木屋町で近藤隊は会津藩の支援を待ますが亥の刻(22時頃)になっても
支援が来ないので襲撃の機会を逃すと不味いと思い近藤隊はたった10名で
池田屋に突撃します。 
その時、近藤勇は新鮮組入隊時の支度金20両で買った愛刀「虎徹」で切り込みます。
結果、この池田屋事件で新選組は認知されます。
 
その翌月には蛤御門の変が起き、薩長同盟、大政奉還、戊辰戦争と時代は
大きく変革して行きます。
もしかしたら、この事件は時代のターニングポイントだったのかも知れません。
 
新選組の局長近藤勇、五稜郭まで行った土方歳三、モテ男の沖田総司も
武蔵国多摩郡(調布市)出身です。 隣近所ですね・・
 
今日は最初に壬生寺の手前の新選組最初の屯所の八木家を訪ねました。
ボランティアの説明員のおじさん(元高校教師だったと)が丁寧に説明して
くれ入り口に有名な誠の旗の前で写真を撮ってくれました。(謝謝)
 
ここから徒歩10分程度で島原遊郭(角屋、輪違屋)があります。
薩長も新選組も出入りしていたと思うけど微妙に時期がずれていたと思いますが、
近藤勇は、この近隣に複数の妾宅を・・(少し羨ましい?)
 
八木家で屯所餅とお茶を頂きました。美味しい。 お土産に屯所餅を買う・・
すぐ後方に壬生寺が有り・・かなり広い、ここで武芸の訓練や面接などを行ったと
思われる。近藤勇の胸像があり,そのそばにアル中の芹沢鴨のお墓があったので手を
合わせました。
 
今日の京都は曇天です。159年前の天気は分かりませんが私は徒歩で四条方面に
向いました。 池田屋事件の時は新選組は怪しまれないようにバラバラに行った
と思われるので、今日の道筋で向かったかは不明だが、当日は祇園祭の宵山なので
人混みに紛れれ表通りの四条通りを歩いたと思うが・・
 
京都は中国唐時代の「長安」をモデルとしているので町が碁盤の目なので
慣れると分かりやすいです。
 
四条高島屋まで歩き、そこから市役所方面へ曲がり、河原町三条まで歩いたら
池田屋が見えました。最も今は「池田屋はなの舞」と云う居酒屋になってました。
 
20230220

入り口の手前に池田屋騒動の縦看板と石柱が有るので、ここが159年前の池田屋騒動の場所だと思わせます。 
居酒屋に変身した池田屋では流石に歴史の匂いは感じませんでしたが、それでも来て良かったと思いました。 
「ホンの少し何かが共有できた」からです。
それが何かは不明ですが、壬生から歩いた実感なのかなと思いました。
 
その店のすぐそばに三条大橋が有ります。 その塔頭に騒動の刀傷が有ると本で読んだので探したけど見つかりませんでした。 
でも、来てよかったと思いました。とても良い1日となりました。