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沼津の港口公園にて

長年お世話になっている歯科医の先生は私と同世代との事で診療中でも折々の四方山話をしたりしますが数日前の定期健診の際には
 
先生・向かいの郵便局の横を少し入ると下り坂が有るでしょ
私・・(診療台で口を開けている)あぁ…
先生・そこに以前、杉原千畝が住んでいたけど、知てるか?
私・・(口を開けたまま)えぇ…
 
私は診療台備付けの水でウガイをしてから
 
私・・その人って、ユダヤ難民のビザ発行の人ですよね・?
先生・そうだよ、その息子の4男と私は同級生でよく遊んだよ。でね、そいつがさぁ
 
何だか近代史の話が急に身近になり、詳細を知りたくなり帰宅後アマゾンで杉原千畝を検索すると奥さんが書かれた『六千人の命のビザ』の本と云う本が検索されたのでそのまま注文しました。
 
翌日に届く(速さも驚くが、この手の本の在庫が有るのにも驚く)・・早々に手にして面白く一気読をしました。歯科医の先生からは
 
・奥さんがとても良い人でね・
・4男とは彼の家の庭でよく遊んだよ・
 
などの話を聞いていたので余計身近に感じられました。ページの後半に杉原千畝の記念館がリトアニアと出身地の岐阜にある事を知るがリトアニアは無理なので機会が有れば岐阜にはと地図を調べようとグーグルしたら偶然・・
 
今月の2020年11月1日に千畝の奥さんの幸子さんの出身の沼津に記念碑が作られたとの情報が・
 
丁度その11月中旬に1泊で大阪出張だったので半日休暇で新幹線の三島駅途中下車で
港口公園を訪ねて見ました。
 
港のすぐそばの広い公園の中ほどに真新しい石碑が有りました。故郷に錦とは思わないが六千人の命を救った事実(記録)をこのような形で歴史に刻み後世に伝えることはとても意義のある事だと思います。
 
当時の日本はドイツと同盟関係でしたので、そのユダヤ人にビサの発行は人道的とは言えかなり勇気のある判断だったと思います。その理由か帰国後早々に外務省を追われ経済的に苦労をしたと、その本には書かれていました。でも、そんなことより杉原千畝を誇りに思うとの幸子夫人の文章には泣けましたね。
 
では、私に何が出来るのか・?
 

sugihara

今できることは限りが有るけど、この話を少しでも周辺に伝える事かも知れない。
自宅(藤沢)のすぐソバにこのような心の奇麗な人がいたのは少しばかり誇らしく思っています。そんな思いを港口公園の真新しい夫妻のレリーフに語り掛けをました。