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雲南省昆明にて

私は神奈川県藤沢市鵠沼という場所に住んでいます。
自宅から鵠沼海岸と云う海まで徒歩20分でたどり着きます。
そのあたりは週末を中心とした私のウォーキングコースでもあります。
晴れていると

  正面には伊豆大島
  右には富士山
  左には江の島

が見えます。風光明媚と云えると思います。
今から90年前の1935年7月17日(水)の午後2時頃に、この鵠沼海岸で 1人の若い中国人が溺死しました(享年23才) その彼の名前は聶耳(Niè Ěr)と云います。 バイオリンなど音楽が得意だとの理由なのか耳と云う字がたくさんですね・・
苗字の聶(Niè)は本当ですが名前の耳(Ěr)はあだ名のようです(本名は聶守信)
日本ではかなり馴染が薄いと思いますが中国で彼の名前を知らない人は皆無だと思います。

 何故って・?

彼は中国(中華人民共和国)の国歌の作曲者だからです。
その曲の名前は(義勇軍行進曲)と云いますがオリンピックで中国人が金メダルを取るとテレビから流れるので、 あれ・・どこかで聴いたことがある・・
と誰でも思います。
その鵠沼海岸の少し手前に(聶耳記念碑)が有ります。
毎年7月17日の暑い日にその場所で追悼行事が行われます(私は過去2回見学している)
彼は雲南省昆明で4人兄弟の末っ子で生まれました。
裕福な漢方医の家庭に生まれますが彼が幼少の頃に父親が他界したので母親の実家の玉渓(Yùxī)(昆明から車で1時間半) で育ちます。 彼の第二の故郷なのかもしれません。
学業が特別優秀なので親戚などの支援を受け云南省立第一师范学校入学し英語中心に ピアノ・バイオリンなども習ったようです。 大学には行かずに(当時は普通か?)18才で上海に行き親戚が経営するタバコ屋さんに 勤めながらバイオリンの稽古を欠かさず行い その後(明月歌舞団)に採用され作曲もするようになります。 その時に作られた(風雲児女)というドラマの挿入歌の曲(義勇軍行進曲)が後の国歌になるのです。 当時の中国は日本軍、蒋介石の国民党、毛沢東の共産党など入り混じり複雑な政情だったと思います。
当時は多くの進歩系中国人が日本に留学をしていました。(魯迅、周恩来・・) またその頃はパスポートも不要なので彼は政治的背景もあるとは思いますが、
それよりバイオリンを極めるために日本経由でロシアに行こうと 思っていたと思います(根拠はありません、私の推定です)
そのロシア行きの離日の前日に友人数人と藤沢の友人宅から鵠沼海岸に海水浴に来ました。
彼は水泳が得意でした(但し彼の水泳は昆明の淡水湖の滇池(Diānchí)) 水泳が得意と云っても波のある(この場所は日本のサーフィンの発祥地でもある)海では 勝手が違ったのか、結果溺死となりました。

その14年後の(1949年10月)に彼の作曲した(義勇軍行進曲)は中国の国歌になりました。
私は歌詞の内容が抗日戦争をイメージする、と思っていましたが中国の友人の話によると

  中国は清朝の頃から香港、マカオ、満州、上海租界など諸外国らの侵略
  を受けていたので国を外敵から守るとのとの背景で採用されたと・・
  まだフランスの国歌もそのような意図の国歌だとのことで採用されたとの

話を聞きました。
 当時の中国は貧しく(元気が出る)が大切だったのだと・・

歴史の流れを見直すとその中国の友人の話は腑に落ちました、
まあ確かにこの歌はどこか元気が出る気がします。

そんな事で藤沢市と昆明は友好都市となりました。
今年の7月17日も昆明から日本語弁論大会で優勝(?)した高校生2名が 招待されていました(有志宅で1週間滞在するらしい)

 私には何が出来るのだろうか・?

仮に自宅の近所で他界した聶耳の故郷昆明を訪ねるとしたら、それはささやかな供養になるかもしれない 昆明は四季を通じて何時も春だと聞きました。

8月上旬は上海と深圳に仕事で出張中だったので休暇を取り2025年8月9日 深圳航空(初めて乗る)深圳宝安~昆明長水で揺れもなく定刻で昆明に来ました。 昆明は標高(1,890m)なので富士山の4合目ぐらいの高原の都市です。
今の気温も25度までない気がします。
酷暑の日本に比べるとプチ天国ですね
四季を通じで春のような気温との宣伝文句も少し納得では感じでした。
昆明長水空港から街中までは1時間ぐらいでした。
  片側4車線でかなり広い
途中最近の中国で良く見かける誰も住んでいないマンション群が見えたましたが
街中に近ずくと古い中国の街並みになり昆明に来たとの気分になりました。
ホテルは蓮の花が満開の翠湖(Cuì Hú)が一望できるホテルで宿泊です。
翠湖を眺めると以前中国語を習うときに使っていた小学1年生の国語の教科書に聶耳が湖の畔でバイオリンの練習に励んでいたとの話を思い出しました。 おそらくこの場所なのかな、と妙に懐かしくなりました。
荷物を置いて地下鉄で聶耳のお墓がある西山森林公园駅まで地下鉄に乗りました(45分前後) 駅を出ると大勢の人だかりと西山森林公園行きのバスが何台も待機していました。
  さすが聶耳の人気は凄い・・
と思いましたが多くの人は西山森林公園の観光のようでした。
(西山森林公園は公園というよりも険しい山で絶壁に多数の寺が点在し下界を見ると昆明の街と昆明の象徴の滇池(Diān Chí)が一望できるとのようですが時間がないのでパスした ) なので、私の聶耳の墓参りはプチ独占状態となりました。
お墓には大きな花のモニュメントと推定5メートルぐらいあるバイオリンを奏でる聶耳の像がありました。 私はお墓の前で駅前で買った昆明の花を添えました。
そして心の中で
  日本の藤沢鵠沼から来ました・・
90年前の鵠沼海岸では大変でしたね・・
23才はさすがに若すぎるけど、でもこうして国の英雄にり名を残す のはとても立派なことだと思います。
藤沢に戻っいたら昆明に行った報告はしておきます。
安らかに・・
と手を合わせました。(すこしホットする) 
その後、併設されている聶耳記念館に行くと彼の人生のストーリーと藤沢の聶耳記念碑の写真も有りました。 (でも写真が鵠沼海岸ではなく腰越海岸で有った、まあ近いから良いか?)
その後、大勢の人が西山巡りなので私も向かってみましたが登っても登っても頂上に着かず途中で息苦しくなる(緯度がかなり高いのでプチ高原病か?)途中挫折する。
  ・・どうやら普段はロープウェイで行くらしい?・・
昆明に戻り昆明聶耳故居(出生地/生家)にも行きました。
老街と云う繁華街の真ん中に有りました。
漢方医の家ですね。 
見学が17時までだったので中に入れず(翌日チラ見) 玄関前で彼の本を手にパチリ その後、彼の出身校の云南省立第一师范学校を訪ねるつもりが空腹に負けで近隣で雲南を食べる。 名物のビーフンですね、窓から大勢のチベット族(少数民族)が踊りをしているのが見えました。(日本の盆踊りみたいで楽しそうであった)

翌日は彼の幼少期を過ごした母親の実家の玉渓(Yùxī)に行きました
(昆明から90分程度)
昆明とは異なりかなり時間と進歩が止まったようなの田舎でした
でも町(村かも)の誇りなのか至る所に聶耳の文字が眼に入りました。

玉渓(Yùxī)聶耳故居に行くと、以前からなのか郵便局と併設(?)された住宅でした
かなり広い家で(まあ単純に物価か安い?)幼少からバイオリンを習う環境には思えないが母親が教育熱心だったのかもしれません。 この聶耳の家以外はかなりディープな町並みで多くのものが道端で販売で 私が30年前に初めて中国に来た風景がデジャヴュしてしまいました。
そこからDiDi(滴滴)で玉渓(Yùxī)聶耳故居(紀念館)と耳音楽広場に向かいました。
古い田舎町にはそぐわない、巨大な施設で驚きました。
推定ですが国の支援で作られたような感じがしました。
立派な施設で図書館や劇場も併設されていました。
聶耳は毎日日記を毎日書いていて鵠沼で溺死する前日の日記も玉渓に戻されたと本で読んでいたので 探したが見つかりませんでした (たぶん・・私の中国語の力量では見ても分からなかったのかも) 施設の5階から聶耳音楽広場を眺めると広場か巨大なバイオリンの形をしていた (ビックリ)
郷土の英雄何だろうと思うけど、国が少々関与しすぎのような気がしました。
私としては、もっと静かにしてあげた方が良いような・・(個人の感想)

20250606 23歳の若さで異国の日本で不慮の死を・・そして14年後の1949年に彼の作品が 国歌になる・・不思議な運命である。
でも何故、彼は溺死したのか、何故14年も経過して国歌に採用されたのか・・
その謎は解けないままでしたが、玉渓(Yùxī)聶耳紀念館で繰り返し流れる
(義勇軍行進曲) を聞いていると少し、いやかなり元気が出る気がします。
それ以上は必要ないのかも知れないと思いました。
帰国後藤沢鵠沼海岸の彼の記念碑に行き昆明と玉渓の旅の報告をするつもりです。
良い旅でした

謝謝