中国の歴史上3大悪女は
①呂后(Lǚ hòu)…劉邦の皇后
②武則天(Wu Zetian)中国史唯一の女性皇帝
③西太后(Cíxǐ)…清末の実権者
とのことが定説ですが①②は1000年以上前の人なので実感はありませんが 西太后(慈禧太后/Cíxǐ Tàihòu)1835〜1908年は100年前ですから身近と は云いませんが少しばかり匂いを感じられるような過去だと思います。
かなり前に浅田次郎の“蒼穹の昴”を途中まで読んだ記憶があったので 今回北京出張とのことで、先月から“蒼穹の昴”全4巻を読み直しをしました。
思い起こすと最初に読んだ(2巻目途中で挫折していた)頃の私には中国と云う 土地柄には殆ど実感もなく、かなり無理して読んでいたような記憶が蘇ります。
・・それでも色々読書をしていると無理して読むことも、どこかで未来に
お釣りがくるような事もあるので、たまには必要かと・・
今回は失念していたお釣りに過度な利子がついて戻ってきたような感じです・・
詳細は知りませんでしたが、中国の三大悪女などの話がのがあることは知っていました。
なので再会した“蒼穹の昴”はある意味では西太后慈禧の人生(時代)の物語の側面が あるので、かなり没頭して読みました。
☆西太后慈禧はホントに悪女なのか・?
と読書の旅となりました。
中島みゆきの歌に♪悪女♪と云う歌がありますが、でも西太后はこの歌詞のように ボロボロ泣いたりはしないので、この手の悪女ではないと思いますが・・
“蒼穹の昴”の文中からは
・民衆の苦労を顧みず贅を尽くしていた(多種多様の料理を作らせるが少ししか食べない)
・自分の別荘の頤和園の修復工事に莫大な費用をかけた(日清戦争の戦費さえも削って投下した)
・成豊帝の側室の西太后は正室の東太后を毒殺した(推定)
・実子の十代載淳帝を殺した(事実は不明)
・十一代光緒帝を幽閉後毒殺した(推定だが・・)
・光緒帝の側室珍妃を寧夏宮近くの小さな井戸(珍妃井(Zhēn fēi jǐng)に投げ込んだ
等が特定及び推定されます。これだけを目にすれば札付きの悪女と思いますが
然し、1861年~1908年(47年間)清朝の実質的な支配者として外国の圧力に耐えながら4億の中国 (当時は4億人)を維持してきた手腕は誰にでも出来ることとは思わないです。
しかも清は漢民族ではなく少数の満州族でもあるので・・
私としては漢民族や満州族などの民族の違いや違和感をどのように感じるのか実感はありませんが 若き日の当時の孫文は反清复明(fǎn qīng fù míng)(清を倒し、明を復す)とも云っています 清朝の前の明朝は漢民族国家だったので民族間の何かが孫文にも有ったのかも知れません・?
北京には南京南駅から高鉄(日本の新幹線)で行きました。3時間少々です。(東京~大阪より少し遠い) 到着は北京南駅です。少し寒いです。
でもこの駅は清朝の頃は马家堡站(Mǎjiābǎo zhàn)だったとの事で、だとすると この場所は西太后が順桂(満州人科挙第二等)首謀とされるテロに遭った場所だと思います。
何と、いきなり“蒼穹の昴”の世界に入り込んでしまった感覚です・?
今回は、北京飯店に(3泊)しました。天安門の眼の前に有ります。
清の末期のころと思いますが イギリスが設計建築した7階建てのホテルで数々の歴史の舞台だと思います。 (現在は別館など高層ホテルになっていた)
フロントで天安門が見える部屋を希望したが、何故か料金が倍なので辞めました。
でも泊まった部屋からは王府井が見えました(むかし、井戸があったからこの地名らしい?)
翌日は故宮に行きました。
明朝は276年、清は268年の長期政権だと思います。
明朝は当初は南京が首都でしたが途中から北京と併用するようになったと思いますが理由は 良く分かりません・・
だとするとこの故宮は実質の歴史は500年ぐらいあると思います。
そして、その西太后は歴史が激しく動く後半の40年ぐらいこの故宮で過ごしたのだと思います。
故宮に入るとその広さに圧倒されます。
おおくの建築物は総て目的別に作られていて(接見、会議、食事、側室専用の部屋等々・・) それを支援する官僚(科挙の合格者)と宦官(去勢した男)や山東省出身の料理人など多数の 階層構造の上に西太后などの王がいる構図ですね(過度な無駄使いを感じるけど・?) 中国はかつて人類に取って有益な発明をしています(紙、印刷、火薬・・)しかし、その後 あまりその手の発明がされていませんがその理由は科挙制度なのかも知れません。
科挙は四書五経の記憶型で(今ならChatGPTに勝てない?)文科系中心で科学者を少し下に見て いたような気がします。それが国のバランスを崩したのかもしれません。
故宮を歩くと科挙の登用試験場(1週間程度缶詰めになる)を見ましたが想像以上に狭く 驚きました。また西太后が息子を若く亡くしたので妹の息子を養子にして王にしますが、 その側室を井戸に落として殺します。 珍妃井(珍妃を投げた井戸)に大きな看板があり 多くの人が見ていました。 簡単に人を殺める・・やはり悪女なのか・?
でもこの時代は欧米列強に周辺の多くの国々は属国にされています。
インド(イギリス)ラオス(フランス)朝鮮半島(日本)満州(ロシアからかなりの圧力) 東アジアでかろうじて独立を維持していたのは中国でその支配者は西太后だと思います。
”蒼穹の昴”は小説なので事実を正確に即しているわけではありませんが、ある核心はついていると 思います。
西太后は人事の天才
だった気がします。
嗜好という側面もあるとは思いますが誰が使えるか使えないかの判断力があった気がします。
さらに科挙制度が上手く機能していた側面と、李鴻章(主に外交)などの優秀 な人がそばにいたからだと思います。
翌日は何かと評判の悪い別荘の頤和園に行きました(北京は広いので1日1か所しか行けない?)
日清戦争の巨額の戦費を削って頤和園を大規模補修した
外圧激しい時期に60歳の誕生日を巨額の費用で行った
700㍍以上の世界最長の回廊を作った

に行きました。西太后が晩年の院政をした場所です。
日々の生活は乐寿堂(Lèshòu Táng)で、合間に昆明湖を眺めながら长廊(Chángláng)728メートル を歩くのが日課だったとの話なので乐寿堂と長廊と思いましたが、あまりにも広すぎて時間がなく乐寿堂には 行けなかったが念願の長廊が見つかり、
西太后が昆明湖を眺めならがこの长廊を歩いたはずです。
この长廊の梁や天井には約14,000枚以上の『紅楼夢』『西遊記』『三国演義』彩色画が描かれて います。その悠久の歴史を眺めながら歩いたのかも知れません。
それから100年が過ぎましたが、西太后が歩いた長廊を私も歩きました。
良い旅が出来たと思います。良かった・・
①呂后(Lǚ hòu)…劉邦の皇后
②武則天(Wu Zetian)中国史唯一の女性皇帝
③西太后(Cíxǐ)…清末の実権者
とのことが定説ですが①②は1000年以上前の人なので実感はありませんが 西太后(慈禧太后/Cíxǐ Tàihòu)1835〜1908年は100年前ですから身近と は云いませんが少しばかり匂いを感じられるような過去だと思います。
かなり前に浅田次郎の“蒼穹の昴”を途中まで読んだ記憶があったので 今回北京出張とのことで、先月から“蒼穹の昴”全4巻を読み直しをしました。
思い起こすと最初に読んだ(2巻目途中で挫折していた)頃の私には中国と云う 土地柄には殆ど実感もなく、かなり無理して読んでいたような記憶が蘇ります。
・・それでも色々読書をしていると無理して読むことも、どこかで未来に
お釣りがくるような事もあるので、たまには必要かと・・
今回は失念していたお釣りに過度な利子がついて戻ってきたような感じです・・
詳細は知りませんでしたが、中国の三大悪女などの話がのがあることは知っていました。
なので再会した“蒼穹の昴”はある意味では西太后慈禧の人生(時代)の物語の側面が あるので、かなり没頭して読みました。
☆西太后慈禧はホントに悪女なのか・?
と読書の旅となりました。
中島みゆきの歌に♪悪女♪と云う歌がありますが、でも西太后はこの歌詞のように ボロボロ泣いたりはしないので、この手の悪女ではないと思いますが・・
“蒼穹の昴”の文中からは
・民衆の苦労を顧みず贅を尽くしていた(多種多様の料理を作らせるが少ししか食べない)
・自分の別荘の頤和園の修復工事に莫大な費用をかけた(日清戦争の戦費さえも削って投下した)
・成豊帝の側室の西太后は正室の東太后を毒殺した(推定)
・実子の十代載淳帝を殺した(事実は不明)
・十一代光緒帝を幽閉後毒殺した(推定だが・・)
・光緒帝の側室珍妃を寧夏宮近くの小さな井戸(珍妃井(Zhēn fēi jǐng)に投げ込んだ
等が特定及び推定されます。これだけを目にすれば札付きの悪女と思いますが
然し、1861年~1908年(47年間)清朝の実質的な支配者として外国の圧力に耐えながら4億の中国 (当時は4億人)を維持してきた手腕は誰にでも出来ることとは思わないです。
しかも清は漢民族ではなく少数の満州族でもあるので・・
私としては漢民族や満州族などの民族の違いや違和感をどのように感じるのか実感はありませんが 若き日の当時の孫文は反清复明(fǎn qīng fù míng)(清を倒し、明を復す)とも云っています 清朝の前の明朝は漢民族国家だったので民族間の何かが孫文にも有ったのかも知れません・?
北京には南京南駅から高鉄(日本の新幹線)で行きました。3時間少々です。(東京~大阪より少し遠い) 到着は北京南駅です。少し寒いです。
でもこの駅は清朝の頃は马家堡站(Mǎjiābǎo zhàn)だったとの事で、だとすると この場所は西太后が順桂(満州人科挙第二等)首謀とされるテロに遭った場所だと思います。
何と、いきなり“蒼穹の昴”の世界に入り込んでしまった感覚です・?
今回は、北京飯店に(3泊)しました。天安門の眼の前に有ります。
清の末期のころと思いますが イギリスが設計建築した7階建てのホテルで数々の歴史の舞台だと思います。 (現在は別館など高層ホテルになっていた)
フロントで天安門が見える部屋を希望したが、何故か料金が倍なので辞めました。
でも泊まった部屋からは王府井が見えました(むかし、井戸があったからこの地名らしい?)
翌日は故宮に行きました。
明朝は276年、清は268年の長期政権だと思います。
明朝は当初は南京が首都でしたが途中から北京と併用するようになったと思いますが理由は 良く分かりません・・
だとするとこの故宮は実質の歴史は500年ぐらいあると思います。
そして、その西太后は歴史が激しく動く後半の40年ぐらいこの故宮で過ごしたのだと思います。
故宮に入るとその広さに圧倒されます。
おおくの建築物は総て目的別に作られていて(接見、会議、食事、側室専用の部屋等々・・) それを支援する官僚(科挙の合格者)と宦官(去勢した男)や山東省出身の料理人など多数の 階層構造の上に西太后などの王がいる構図ですね(過度な無駄使いを感じるけど・?) 中国はかつて人類に取って有益な発明をしています(紙、印刷、火薬・・)しかし、その後 あまりその手の発明がされていませんがその理由は科挙制度なのかも知れません。
科挙は四書五経の記憶型で(今ならChatGPTに勝てない?)文科系中心で科学者を少し下に見て いたような気がします。それが国のバランスを崩したのかもしれません。
故宮を歩くと科挙の登用試験場(1週間程度缶詰めになる)を見ましたが想像以上に狭く 驚きました。また西太后が息子を若く亡くしたので妹の息子を養子にして王にしますが、 その側室を井戸に落として殺します。 珍妃井(珍妃を投げた井戸)に大きな看板があり 多くの人が見ていました。 簡単に人を殺める・・やはり悪女なのか・?
でもこの時代は欧米列強に周辺の多くの国々は属国にされています。
インド(イギリス)ラオス(フランス)朝鮮半島(日本)満州(ロシアからかなりの圧力) 東アジアでかろうじて独立を維持していたのは中国でその支配者は西太后だと思います。
”蒼穹の昴”は小説なので事実を正確に即しているわけではありませんが、ある核心はついていると 思います。
西太后は人事の天才
だった気がします。
嗜好という側面もあるとは思いますが誰が使えるか使えないかの判断力があった気がします。
さらに科挙制度が上手く機能していた側面と、李鴻章(主に外交)などの優秀 な人がそばにいたからだと思います。
翌日は何かと評判の悪い別荘の頤和園に行きました(北京は広いので1日1か所しか行けない?)
日清戦争の巨額の戦費を削って頤和園を大規模補修した
外圧激しい時期に60歳の誕生日を巨額の費用で行った
700㍍以上の世界最長の回廊を作った

日々の生活は乐寿堂(Lèshòu Táng)で、合間に昆明湖を眺めながら长廊(Chángláng)728メートル を歩くのが日課だったとの話なので乐寿堂と長廊と思いましたが、あまりにも広すぎて時間がなく乐寿堂には 行けなかったが念願の長廊が見つかり、
西太后が昆明湖を眺めならがこの长廊を歩いたはずです。
この长廊の梁や天井には約14,000枚以上の『紅楼夢』『西遊記』『三国演義』彩色画が描かれて います。その悠久の歴史を眺めながら歩いたのかも知れません。
それから100年が過ぎましたが、西太后が歩いた長廊を私も歩きました。
良い旅が出来たと思います。良かった・・